元日本代表FW久保竜彦、コーチとして新たなスタート (1/3) 「“うまくなりたい”子どもの手助けを」

 その男の表情からは、鋭さが消えていた。現役時代、ピッチ上で見せた相手を射抜くような瞳ではなく、まるで慈父のような温かさで、サッカー少年たちを見つめていた。

「ええ感じや」「うまいぞ」

 何気ない彼の一言が、子どもたちを燃えさせる。打つ、打つ、打つ。とにかく、シュートを子どもたちは打ち続ける。その姿を、久保竜彦コーチはずっと見つめている。

 サンフレッチェ広島や横浜F・マリノスで活躍した元日本代表FW、というだけでは表現しきれない記憶に残るストライカー。天空で止まっているかと思わせるほどの跳躍。「面倒臭いから」と後方からのロングボールをそのままボレーでたたき込む野性味と発想力。アフリカ系の選手を思わせる抜群の身体能力と寡黙だが素朴な人柄を、多くのサッカーファンは愛した。

 それほどの大選手の引退がひっそりと報じられたのは、今年の4月7日。同時に、広島県廿日市市が本拠地となるNPO法人廿日市スポーツクラブのコーチ兼アンバサダーへの就任が発表された。
 最後の所属先となったJFL・ツエーゲン金沢との契約満了後、久保はさらなる現役続行を模索した。オファーはあった。国内から数チーム、タイのクラブからも誘いを受けた。だが、最終的には自分で決断し、17年にわたる選手生活にピリオドを打った。

■「やめる時が来たのか……」

 2009年秋、広島を退団した時には「まだやれる」という自信はあった。悩まされ続けた腰痛などのけがが快方に向かい、コンディションも上がってきたからだ。
 だが、「体に痛みはなかった」という金沢で、彼は現実を見せつけられる。点を取ってはいたが、久保らしい独力で相手を抜いて得点をたたき込む形がほとんどない。全盛期を支えた驚異的なバネも落ち、スピードの衰えも感じた。11年、手首を骨折した時も「今までならテーピングを施せばプレーできていたのに、あの時は練習できなかった。どうしても元気が出てこなかったですねえ……」と久保は首をひねる。

 そんな彼に再び活力が戻ってくる。天皇杯で古巣・広島との対戦が決まったからだ。サンフレッチェと戦いたい。その強い思いが久保をサッカーへとかり立てた。その姿を上野展裕監督(当時)も認め、広島戦で彼は先発出場を果たす。

 紫のユニホームとは違うシャツを着てピッチに立った久保を、広島の人たちは温かく迎えた。前半に見せた40メートル近い距離からのロングシュートに「久保らしい」と拍手。決定的なクロスに飛び込みながらシュートを外した時には、思わず「惜しい」と声を漏らす人もいた。それほど、彼は愛されていた。

 だがこの試合が、彼の心の奥底で、引退の引き金を引いてしまった。

「シュートが枠に飛ばない」

 久保はシュートに関して“自分の形”を持っている。例えば、横浜FCや広島で放った伝説的なロングシュート。あれは“とりあえず打つ”ではなく、自分の形に持ってきたがゆえに、確信を持って左足を振っているのだ。

 ところがこの日、自分の形に持っていったにもかかわらず、シュートが枠に飛ばない。バネもない。自分でゴール前に持ち込めない。思いと裏腹にシュートを決められない。ショックだった。

「やめる時が来たのか……」

 若いころは、楽しければ良かった。楽しくなくなれば、サッカーはいつでもやめていい。そう思っていた。だが、けがによる離脱期間が長くなるにつれて、思いはサッカーへと向かう。若いころはほとんどやらなかったストレッチを、誰よりも念入りに行った。一番早く練習場にやってきて、最後に練習を切り上げる。2度目の広島時代、若いころとは真逆の取り組みを続けていたのも、すべてはサッカーを続けるため。だが、運命とは皮肉なものだ。サッカーへの情熱が高まった時、久保の体は自らのイメージを実現する状態には戻らなかったのだ。