鳴戸親方死去 愛弟子の大関取りを前に無念の急逝

本場所十両土俵入りが行われる少し前、両国国技館なら3階客席上の角にある監察室前によく通った。監察委員の親方衆に弟子について取材するためだ。稀勢の里が注目されると、お目当ては師匠の鳴戸親方となったのだが、手すりにつかまりながら巨体を揺すり、息を切らして階段を上がってくる姿を見るたび、正直、親方の体調が心配になっていた。

 現役時代から病気と闘ってきた人だ。元横綱初代若乃花の二子山親方に連れられ、横綱2代目若乃花間垣親方と2人、夜汽車で上京。師匠の期待は2代目若乃花より高かったというが、幕下時代に力士の命取りとされる糖尿病を患った。

 それからは酒、肉を断ち、食事は自分でカロリー計算した野菜中心のちゃんこ。当時は邪道視されていたウエートトレーニングで筋肉を補い、プロテイン漢方薬なども勉強して取り入れた。辛抱と努力で病を克服し、初土俵から91場所という当時史上2位のスロー出世で横綱に昇進したのは31歳を目前にしたとき。2代目若乃花はすでに引退していた。「人間辛抱だ」が信条だった師匠が「あいつだけには頭が下がる」と言ったほど。

 歴史書ビジネス誌を好んで読んだことで「変人」と呼ばれたが、私は親方が語る思い出話を聞くのが好きだった。特に師匠の思い出を懐かしそうに、楽しそうに話す様子からは尊敬の念の強さがうかがえた。

 それだけに師匠同様、弟子への指導の厳しさは角界一、二を争った。八百長問題の際には「あそこだけは絶対にない」と関係者の目が一致していたほどだ。愛弟子の稀勢の里に強い期待をかけていただけに、悲願の大関取りがかかる九州場所目前の急逝に、“おしん横綱”の無念を察してあまりある。(只木信昭)